1985年2月

 日本の児童文学の草分け、石井桃子氏にお会いした。優しくてことば少なな方だが、子どもの本の話になると語気を強められ「絶版廃止運動を始めたいと思います。古くから読み継がれている良い本を子どもに読ませなければ」と、新刊本にばかり目を向けがちな近頃の風潮を嘆かれた。親がもっと"良い本"を知り、それを求めなければ"古くても良い本"は絶版に追い込まれてしまう。被害者となるのは我が子である。

おやすみなさいフランシス

 フランシスがどういう種類のくまなのかはひとことも書いていないが、絵を良く見る子にはすぐ分かる。フランシスのお父さんが『あなぐましんぶん』を読んでいるからだ。
 天井のシミや風に動くカーテンが怖くて、すぐベットから抜け出してくるフランシスに、お父さんもお母さんも辛抱強く応対する。掛けてある部屋着が恐ろしい大男に見えるフランシスに「つかまえにきたとはかぎらないよ。なんのようだかきいてごらん」というお父さん、「おおおとこさん、なんのごよう?」と聞いてみるフランシス。なんの変哲もないあなぐまの子の後姿なのに、ガ―ス・ウィリアムズが描くと手を差し伸べたくなる愛らしさがある。


銀河鉄道の夜

 このごろまたあちこちで宮沢賢治が取りあげられている。この物語も、この影絵のほかに小林敏也の線画による同じ大きさのものが書店に並んでいて、同じ物語から二つの異なった世界が描き出されているのが面白い。どちらを選ぶかは好みによるが、幼いころ読んだ『銀河鉄道の夜』は、夜空一面に星が輝くこの影絵の世界に近かったような気がする。
 後者が原文をそのまま絵本にしているのに比べて、藤城清治はできるだけ原文どおりにしながらも文章を短く縮めている。しかし、読む力のある子ならこの絵と文から、原文にある銀河鉄道の美しい世界を心に描くことができる。


ぼくは12歳

 この少年は十二歳で空に身を投げた。父親が朝鮮人ゆえの悩みが深かっただろうと母親が書き添えていて、いろいろ話題になった本だが、今はむしろ一冊の詩集として子ども達にもこれを読んでほしい。悲しみや苦しみの、大人びた詩もいくつかあるが、健康でみずみずしい作品のほうがずっと多く、若者に共通する心がうたわれている。
一つぶのなみだは
一てきの雨にあたいする
思いちがいのなみだは
雨上がりの葉からほとばしる
一てきの雨にあたいする
ごめんなさいというほほえみは
雨上がりのにじにあたいする
 ("ごめんなさい"より)


おにたのぼうし

 毎年二月三日頃、立春の前日に鬼打ち豆をまくことは、日本人にとっては、クリスマス以上に慣れ親しんだ節分の行事なのだが、英語版にはa strange customとなっている。物語も結末を変えてあるが、原文の哀しい美しさは失っていない。